天皇の地位の“基礎”について、
戦前は神話に出てくる天照大神が孫のニニギのミコトに授けた
「神勅(しんちょく、神のお告げ)」に基づく、
などと強調していた(文部省『国体の本義』など)。
特に「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」が最も有名。
以前、泉美木蘭さんがこれに触れておられたので、
さすがと感心した。
中身を現代語訳すると以下の通り。
「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国
(日本国)は、わが子孫が君主であるべき地である。
汝(なんじ)皇孫(こうそん、ニニギのミコト)よ、行って
治めなさい。
天皇の地位が栄えることは、天地と共に窮まりがないであろう」
皇位の無窮の“栄え”を約束した内容。
この神勅が最初に出てくるのは『日本書紀』。
しかし同書では、正文には収めていない。
本来は割り注だった
「一書(あるふみ)」という、異伝の中に入れられていた。
比較的“軽い”扱い。
それが後代、平安時代初めの『古語拾遺(こごしゅうい)』に
大きく取り上げられ、更に北畠親房(きたばたけちかふさ)の
『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』で特筆大書されて、
後の世にも注目されることになる。
次第に重視されて行ったあたりが興味深い。
天照大神の“神勅”については、日本国体学会の創始者、
里見岸雄博士が「国民の総意」と関連付けて、次のような指摘を
されている。
「たとえ神勅がどうあろうと、天皇がどう欲せられようと、
国民の大多数の者が、天皇は不要だと思い、それを廃止することを
欲したと仮定するならば、万世一系も…無窮もあり得るはずがない
ではないか。
とすれば、神勅として規定されているのは古代人的思考法として、
神勅の形をとっただけのことであって、その客観的事実においては、
即ち社会的事実としては要するに、国民的総意ということに外ならぬ。
…『神勅』は国民的総意の古代人的表現であり、『国民の総意』は
神勅の現代的表現であって…古今を通じて同一である」と。
今、改めて傾聴すべき見解だろう。